ハルカスは日本一 (ばね指)
八月の夏の暑い月曜日でした。一組の若い夫婦が診療所を訪れます。ご主人も奥様も二〇代の後半、小さな赤ちゃんを連れてベビーカーで来院される。
ご主人は理髪店を営んでおり、奥様はその仕事を手伝っている。奥様はもともとOLをしており、理髪業と全く関係のない職種。でも、結婚と同時に勤めていた会社を辞めて、ご主人と床屋を経営するようになった。ただ、奥様はもともと別の仕事をしていたので、ずっとご主人の補助、要するに雑仕事。ご主人の腕と夫婦の人柄もあり、お店の方は順調、お客様も増えていると言う。
お客様の増員により当然多忙になり、人手不足となる。ご主人一人では手が回らなくなってくる。顔剃りは奥様の任務となる。最初は人様の顔、傷つけてはいけないと思いこわごわ剃っていましたがもう慣れたとのこと。でも、緊張感と慣れない行為のため、右親指がばね指になってしまった。このままではカミソリが持てないので、顔剃りが出来ない。顔剃りまでご主人がやっていたのでは間に合わないので、何とか治して欲しいとの要望。
ばね指は完治まで施術の回数が掛かるので、途中で諦めずにこまめに通って欲しいと予め了解を取って施術を開始する。
最初の日は、ご主人の付き添いでの来院でしたが、二回目からは奥様がベビーカーを引いての来院。一歳の赤ちゃんとご一緒です。地下鉄御堂筋線の西田辺の駅、天王寺から南に二つ目の駅なので、ベビーカーを引いて来れる距離です。でも、暑い日なのでベビーカーを押してやって来るのは一苦労。それでも汗をかき通院してくれました。何としても早くばね指を治したい、早く仕事に復帰したい、その思いが伝わってくるのです。
ありがたいことに、上手くお母さんが寝かしつけてくれて、施術中はベビーカーの上でスヤスヤと熟睡していました。たまに起きて、泣き出す事もありましたが、お母さんが抱っこするとニコニコ。ばね指の施術は子供を抱いたままでも可能なので助かりました。
「仕事をしている間は、赤ちゃんどうしているのですか。」
「母が見てくれています。おしめも母が替えてくれています。泣き出したら、お乳をあげます。ただ、あまり泣き出したら、主人に頼んで仕事を離れますけど。子供はすぐ近くにいますから大丈夫なんです。
それよりこの親指。」
そう言って、右の親指を動かす。その時、カクッとなる。刹那、直角に固定されてしまいました。片方の手で元に戻すものの、また、ちょっと動かすと動かなくなってしまう。何度やっても同じ。この症状をばね指とよく名付けたもの。まさに、親指がバネになってしまいました。
「カミソリ持てないです。困ります。手術すれば治りますか。」
「手術は最終手段。」
「わたしもあまりメスは入れたくない。」
そんなやり取りを交わす。
施術を開始して三回目、その時点ではあまり症状に効果が見られず、若いお母さん心配して聞いてきます。
「大丈夫?完治しますか。」
「最初に言いましたでしょう。一〇回ぐらい掛かるって。」
そこが問題。たいていの人はここで疑問を持つ。『無痛ゆらし療法って、本当に信用していいの?』
「多少時間とお金は掛かりますが、諦めないで下さい。最後は信用して貰うしかありません。」そう説得する。
若いお母さん、わたしの眼をじっと見つめて数秒。
「信用します。一〇回診て貰って駄目なら手術します。何事もやってみなければ分かりません。」
彼女のその瞳が晴れやかになりました。無痛ゆらし療法に対する疑念という雲が払拭されたようです。
今までの経験から、何人かのばね指の患者さんを治してきた。だからと言って、この患者さんの親指が完治するとは確約できない。駄目ならば無痛ゆらし療法が信用されなくなり世の中から葬られるだけである。でも、治癒させる自信はあった。だから、この施術をしているのだ。
施術の効果は五回目ぐらいで現れて来る。
「先生、親指、痛みがなくなってきました。でも、まだ、動かすとカクッてくるけど。」
「徐々に良くなっていきます。もう少し頑張りましょう。」
お互いの信頼が揺るぎなくなっている。完治という頂上はもう間近か。頑張って登るしかないのです。
何回目かの施術の時、お母さんが言います。
「初めて、先生の所へ治療に来た日、主人と一緒にハルカスの展望台に登りました。」
「六〇階までですか。」
「そうてっぺんまで。見晴らしすごかったです。」
「でしょう。阿倍野に来たらハルカスの展望台に行かないと。」
「大阪の街が見渡せて、本当小さく見えました。」
ハルカスが日本で一番高い高層ビル。三○○メートルある。ちなみに、日本の高層建物のベスト五は、一番はあべのハルカスですが、二番目が横浜ランドマークスター (神奈川) 、三番目がりんくうゲートワークビル (大阪) 、四番目が大阪府咬州庁舎 (大阪) 、五番目が虎ノ門ヒルズ (東京) 、ベスト五の中で大阪の建物が三つも入っています。大阪はすごい。
「高過ぎて、景色が米粒のよう。目まいがしそう。」
「展望台は一回で十分です。展望台まで行くとお金を取られるしね。一七階までなら無料です。一七階にはカフェがあって、そこでカフェオレを飲みながら大阪の街を展望するのも落ち着けるし気持ちが良い。」
「一七階ですか。途中でエレベーターを乗り換える階ですね。」
「ハルカスも良いけれど通天閣には登った事がありますか。」
「一度だけ。」
治療院から東へ向かうとあべのハルカスが、西へ歩くと通天閣があります。距離にして、約二キロぐらいかな。ハルカスから通天閣まで、阿倍野と西成の街を探索しながら、十分に歩いて行ける道のりです。
「不思議なもので、同じ阿倍野の西田辺に住んでいるのに、ハルカスに来た事がなかった。先生の所にばね指の施術に来たので、主人もせっかくだから展望台に登ってみようかと、話の種になりました。」
お母さんは言います。
「そんなもんですね。身近にあり過ぎるとかえって行かない。」
「今度、主人が付いて来てくれた時は、通天閣にもう一度登ってみようかと。あそこまではベビーカーを押してはいけない。」
「ここへ来る患者さん。来る時は、天王寺からハルカスと近鉄百貨店で時間を過ごして、施術後、帰る時は、反対方向へ歩いて、通天閣と新世界周辺をぶらぶらして帰る方が多いですよ。あの辺は昔の大阪はそのまま残っている。」
「昼ご飯は名物の串カツを食べて。」
「そう、ソース二度付け禁止の串カツ屋さん。通天閣周辺にはたくさんある。美味しいですよね。大阪の名物になっている。」
そんな会話を交わしながら施術は進む。この若いお母さんは近くにお住まいですが、他府県の遠方から来院される方もいらっしゃる。ハルカスや通天閣の話題の提供は、患者さんとの初対面の堅苦しい緊張感から解放してくれる。
その日も無事に施術が終わり、右親指も少しずつ動くようになっていきました。
そんなる日、お母さん、予約の時間より三〇分ほど遅れて来院される。いつも時間にはきっちりと来院される方なので、何かあったのかと尋ねてみる。
「先生聞いて下さい。今日ね、近鉄百貨店で嫌な事がありました。先生の所に来るまでに、時間がありましたので、先生の言われたように一七階まで登ってカフェオレを飲んでのんびりしていました。あそこからの景色も爽快で格別ですね。美味しいカフェオレに、落ち着きます。
それから近鉄百貨店で買い物をしたのです。ベビーカーを引いて赤ちゃんを連れての移動でしたが、店員さんも親切でしたので結構楽しく買い物が出来ました。
ところがです。買い物が終わって一階へ降りようとした時、エレベーターがなかなか来ないのです。今日は日曜日でしたので混雑していたのでしょう。やっと来たと思ったら、今度はいっぱいで乗ることが出来ない。ベビーカーを引いているので、乗車にはスペースを取る。それでエレベーターの中に入れないのです。『赤ちゃんを連れているので、譲ってくれませんか?』とお願いするのですが、乗っている人達はほとんど無視。結局、次のエレベーターを待つしかありません。その内に三台ぐらいエレベーターを乗り過ごしました。
あまりにも不親切なので、ちょっとカリカリしていたら、後方から年配のご婦人の方の声がする。
『お母さんも大変だね。ベビーカーを押して。でも、こんな調子では中々乗れそうもないね。』
車椅子に乗ったご婦人でした。後ろで介護員の方が車を押している。
『私達もエレベーターに乗るのには相当苦労するよ。元気な人はエスカレーターを利用してくれれば良いのに…。わたしのような車椅子や、あなたのような赤ちゃんを連れていたのではエスカレーターでの移動は無理だからね。』
と恨めし気に中々やって来ないエレベーターの停止している階を確認していました。
それから、三台ぐらいエレベーターが来ましたが、やはりいっぱいで乗る事が出来ず。やっと、四台目のエレベーターで少しの空間があり、それも二台は無理なので車椅子のお婆さんに譲りました。
『あなたの方が先に待っていたのに済まないね。』と恐縮されて乗って行かれました。幸いなことに、次の次のエレベーターが少し空いていたので乗る事が出来ましたが、結局、八台のエレベーターを乗り過ごしました。時間にして約四〇分以上、八階から一階へ降りれなかったのです。それで先生の所に来るのに三〇分以上も遅れてしまった。どう思います、先生?」
診療所に入るや否や、不快な気分をぶちまけて来ます。その話ぶりは、誰かにこの腹立たしさを聞いて貰わねば気が済まないし、一日が終わらないといった雰囲気。
「それは災難でしたね。でも、エレベーターに乗っていた方は、代わってあげようという気にならなかったのですかねえ。」素朴な疑問だ。
「それが誰もいなかったですね。逆に、『こんな混んでいるのにベビーカーで来て!』というようなうさんくさい目で見られました。
そのうち赤ちゃんは泣き出すし、もう大変でした。」
「これは近鉄百貨店の方に問題がありますね。
それにしても、後から来た車椅子のご婦人に譲ってあげるとは!本当にあなたは心の優しい人だ。」
「やっとエレベーターに乗れて、一階まで降りれたのです。そうしたらその車椅子のお婆さんが待っていてくれたのです。
『これは近鉄百貨店に抗議しなければだめだ。この百貨店は身体障害者や赤ちゃん連れの客に全く配慮していない。あなたが降りて来るまでにアンケート用紙を貰ってきた。エレベーターでの出来事を書いてアンケート箱に入れておきましょう。
それと近鉄百貨店の総合受付にも電話を入れて抗議をしなければいけない。エレベーターでしか移動出来ない人が、一番エレベーターを利用できない。近鉄ではどう考えているのかとね。
わたしは今から抗議の電話を入れるけれどあなたも電話を入れなさい。こういう抗議は大勢の方が良い。
でもね、近鉄百貨店には腹が立ったけれど、あなたの優しさには嬉しかった。その優しい気持ちがあれば赤ちゃんもすくすく育っていくね。』
そう言って帰って行きました。その車椅子のお婆さんの言葉に、先ほどの不快感は和らぎ、なんとなく嬉しくなりました。」
「近鉄にも問題があるけれど、身体障害者の方やベビーカーのお母さんに譲らない客の方にも問題はあるかな。」
「確かに、皆不親切に思えました。けれど、皆さん、混雑時エレベーターを待っておられた。わざわざ降りる気はしなかったのでしょう。」
若い奥様、ここまで話すと心が落ち着いたのでしょう、いつもの晴れやかな笑顔に戻っていました。
「それで、近鉄百貨店の方には抗議の電話を入れたのですか。」
「もちろん入れました。すると、電話の対応に出た方が、先ほども車椅子に乗っている女性の方から同じような抗議の電話があったと言います。あのお婆さんすぐに電話を入れたのでしょう。」
「電話に出た方の答えは?」
「『すぐに上にあげて対処します。』との応答でした。」
「本当に対処するのかな。」思わず疑念の言葉を発してしまう。
「あんな大きな会社。一つや二つの抗議で動くとは思えない。どうせ、電話を受けた人の内々で終わってしまうかもしれない。」
「でも、抗議の電話を入れてアンケートを投書したのは良かったと思いますよ。何らかの形で近鉄百貨店も考えるでしょう。さもなければ、ハルカスは背丈だけが日本一で全く思いやりのない建物になってしまう。」
「そうですよね。」
そんな会話の中で、その日のばね指の施術は終わりました。
近鉄百貨店の身体障害者への対応のまずさと異なり、若いお母さんのばね指は徐々に回復しており、もう固まる事もなく自然に動くまでになっていました。
その翌週の日曜日の朝、再び、若いお母さんやって来られる。施術を開始してから八回目の来院。笑顔があふれんばかりで、とても嬉しそうでした。ベビーカーの中の赤ちゃんも、泣く事もなく、ニッコリ笑ってこちらに視線を投げかけてくる。微笑むえくぼがとても素敵。思わずこちらも赤ちゃんにニッコリ。笑顔と笑顔が絡み合い、その日の幸せを予感する。
「先生、今日嬉しい事が二つありました。」
そのメッセージにこちらも自然と心が和む。
「嬉しい事!」
「一つはカミソリが持てたのです。お客さんの顔が剃れました。痛みもカクカクする事もなく普通に持てたのです。ばね指完治したようです。これで今までのようにお客様の顔が剃れます。先生のお陰です。」
「それは良かった。」ほっと一息。施術者にとってこんな嬉しい報告はない。
「この仕事をしているとカミソリが持てないのは致命傷。本当に良かった。」
「もう一つは?」
「今日も近鉄百貨店に行ったんですよ。腹が立つけど。赤ちゃんの服で気に入った物があったので…。
どうせまたエレベーターに乗るのには時間が掛かると思っていたのですが、運よくすぐに一台のエレベーターがやって来た。でも、また混んでいて乗れないだろうと思っていましたし、やっぱり混んでいる。これはまた一台見送らねばと諦めたのですが、なんと、いつもなら無人運転のエレベーターのはずなのに、エレベーターガールが乗っていました。
そうして乗っている人に言うのです。
『このエレベーターは福祉優先のエレベーターです。ベビーカーを押しているお客様がご乗車されます。健常者の方は、他のエレベーターかエスカレーターを利用して下さい。元気な方、どなたか降りてくれませんか。』と有無を言わせぬ口調。
そう忠告されて降りない人はいないですよね。ベビーカー優先。赤ちゃん優先。三、四人の方は降りてくれました。
それで待つことなくすぐに乗れたのです。」
「今までは、福祉優先のエレベーターなんてなかったのでしょう。第一、近鉄百貨店のエレベーターは無人で、エレベーターガールは乗っていなかった。」
「たぶん先週、抗議したからではないですか。福祉優先のエレベーターを設置して交通整理をするようになった。」
「だとしたら、近鉄百貨店の対応が素晴らしい。拍手を送りたいね。
これで、ベビーカーを押している人も、車椅子の人も、そして身体障害者全ての人が恩恵を受けることが出来る。」
「近鉄の迅速な行動に感激でした。
時間に余裕が出来たので、また、ハルカスの一七階でカフェオレを飲みました。ハルカスは高さだけでなく、サービスや福祉面でも日本一です。」
その日の施術も順調に終了。施術後、若いお母さん、右親指を動かします。
「大丈夫!普通に動く。もう元に戻らなくなった。」
と二重の喜び。赤ちゃんを見て、
「ママの指治ったよ。」とニッコリ。
「治ったと思うけど、心配なのでもう一度来週診て貰います。主人と一緒に来ます。ただ、主人と一緒なので、日曜日は無理。稼ぎ時だからね。月曜日に来院します。」
そう言ってベビーカーを押して帰って行かれました。
翌週の日曜日、予約もなく施術の時間が空いたのでハルカスへと足を運ぶ。ハルカスの一八階には、お金の出し入れをしている池田泉州銀行がある。本当はそれが目的。施術の売り上げを入金する。それから、一つ降りて、一七階のいつものカフェでカフェオレを飲む。大阪市内の展望、何度見ても目新しく新鮮。眼下に映る大阪の街はいつもその姿を変えている。今日はどんな装い?やすらぎの中に胸がときめく。
一三階の食堂階で食事をして、エレベーターに乗る。するとエレベーターの中に近鉄百貨店の制服を着た女性が乗車している。ちょうど昼時、食事を終えた客でいっぱいになっている。エレベーターは九階に停車する。扉が開くと、ベビーカーを押した若い女性が待っていた。
即座に、エレベーターガールが言う。
「ベビーカーを押しているお客様が乗車されます。このエレベーターは福祉優先です。どなたか降りて下さい。」
あの奥さんが言った嬉しい事とはこれなのか。当然、降りようと思った。しかし、一番奥にいたことと、入口の方が降りてくれたので降りるまでには至らなかった。エレベーターはそのまま下降したが、六階でまた停車。今度は車椅子の方が待っている。これでベビーカーと車椅子の二台となる。もう健常者のお客は降りなければ乗れなくなってしまう。健常者でも年配の方を残し、他の者は乗務員に言われる前に自主的に降りた。
目の前にエスカレーターがある。健常者はエスカレーターか階段を利用すればいい。これで福祉の人達は安心してエレベーターに乗車出来る。エスカレーターで一階まで降りながら、なんとなく清々しい気持ちになる。即座に対応した近鉄百貨店に心の中でもう一度拍手を送っていた。
翌日、若いお母さんとご主人が来院される。
「先生のお陰で、また、妻はお客様の顔が剃れるようになりました。ありがとうございました。」ご主人がお礼を述べられる。
「それより、近鉄百貨店、福祉優先のエレベーターが出来ましたね。これで身体障害者の方もベビーカーの方も待たずにエレベーターに乗れる。昨日、暇が出来たので、行って来たのです。」
「そうですか。福祉優先のエレベーターありましたでしょう。
今日も施術の後、主人と一緒に、また、ハルカスの展望台に登るつもりです。きっとまた良い眺めでしょう。
それにしても、あの車椅子のお婆さんどうしているのかな。」
「もちろん喜んでおりますよ。」
「どこのどなたか知りませんが、もう一度お会いしたい。」
「いずれハルカスの建物の中で偶然に出会いますよ。運命なんてそんなもの。」
「その時は一緒に良かったねって!」
奥さんの笑顔が眩しい。治療院の窓から見える巨大なハルカスの建物の影にキラリと反射してました。赤ちゃんはご主人に抱えられてニッコリと満足そう。ご主人も妻のばね指が治癒してほっと一息というところ。
施術後、三人の家族は治療院をあとにします。
しばらくして、窓からハルカスを見上げると、今頃、あの六〇階で家族団欒、楽しく過ごしているのかと思うと微笑ましくもあり羨ましい。
西の空から、真っ赤な夕陽が幸せな光となって差し込んでいました。